「かつては街に開かれていた場を再生し、日進町を変える場として地域に還元したい」
オーナーはこの地で創業した3代目。その強い想いを軸に、このプロジェクトは形づくられていった。
建物の状況、収支等を精査し、最善の方法としてリノベーションを選択。日進町の現状を否定することなく、できる限り既存を残し、歴史を内包することでクリエイターが集まる新たな創造的複合拠点をつくりだし、街の活性化を図ること目的とした。
この取組みに川崎市も賛同してくれ、イベント参加に留まらず、人と場を大いに結び付けてくれた。
建物名である「unico」とは、イタリア語で唯一無二の意味。
コンセプトは「発酵してる?」
コンセプト具現化のため、施主、事業者、入居者が密に関わり合い、化学反応を生み出せる手法をとった。
まず、大まかな区画分けのみを行い、オーナーの想いに共感し、この施設・街に必要なテナントのみを募集する。
さらには、テナント毎に区画を再設定し、その都度、工事スケジュールを変更。オーナーもその都度意思決定を求められるため、連日話し合いが行われる日々。近隣住民とも話し合いの場を設け、オーナー自ら地域の歴史やこれからの想いを語るなど行った。
結果、レセプションパーティに駆け付けた人は250人を越えた。
現在は、地域の主婦や会社員などもテナントを利用し、街を歩く人にも徐々に変化が表れている。
BEFORE
戦後間もない1947年、川崎大師薪能の創設などの文化振興や社会奉仕に尽くした故米山市郎氏が、焼け野原だった川崎・日進町にて70年前に創業。
1963年と1967年に建てられた「unico」の前身である2つのビルは、工場や倉庫でもあり、事務所でもあり、集団就職の社員100人以上が住む寄宿舎でもあった。
竣工当時は、高度経済成長期。川崎駅周辺は、労働者の行き交いも多く、旧ヨネヤマ本社ビル群は、日進町の簡易宿所街と共に街の賑わいをつくっていた。
それから半世紀弱。
付近を占めていた工場地帯に住宅化の波が押し寄せる中、1989年に本社機能は移転し、一部を関連会社が使うのみに。
一方、簡易宿所街は、労働者層の変わりに後期高齢者が主要宿泊者となるも当時の面影を残したまま。新築のマンション群と道路を挟んで向かい合うといった、時代を鉈で割ったような隔たりを抱えた状態となっていた。