







「残せるなら、先代の想いがある桜も建物も残したいのだけど……」新築への建替え相談から始まった計画は、中庭の桜の老木の前で交わしたオーナーの一言から方向を変えた。
築約50年の賃貸住宅は、空室・賃料低下と割高な部分修繕が重なるほど抜本的な再投資が難しくなる。従来の取引金融機関からは「新築でなければ長期融資はできない」と告げられていた。金融業界の慣習と建築再生の間に壁があった。
そこで法規、耐震、耐久、設備、外皮を現在の基準に引き上げる建築再生計画を立て、事業性を検証。既存建物を活用して次の50年を構想できると判断し、再生にかかる総費用を新築の約1/2に抑えながら、別の金融機関から新築と同等の長期返済で資金を調達した。
駅から15分以上離れた一帯は閑静だが、商店が減って住宅だけの街へ近づき、昼には人の活動が街に現れにくくなっていた。オーナーは「寂しい地域になってきた」と感じていた。そこで再生によって生まれた余力を、自然と人が集まり、過ごしたくなる場の創出と運営に投じることにした。バス停に面した2住戸をカフェ兼レンタルスペース「HALO」へ。バス停前に計画したベンチとテラスのある庭と桜を囲む中庭を、人が自然と交感しながら過ごせる場として整え、1階は街路側からも直接入れるSOHO住戸とした。閉じた賃貸住宅に人の活動が街へにじむ接点をつくり、共用空間が街に参加する建築へ変えた。
BEFORE
1915年、東京の都市化が始まるなか、農学者・岡見彦蔵は、都市生活者の健やかな暮らしには自然との交感が必要だと考え、目黒村に私設「自然園」を開いた。住宅化に伴い1925年頃に閉園したが、名はバス停「自然園下」に残った。約50年後の1979年、住宅需要に応える25戸の賃貸住宅が建った。雁行する住戸、桜を囲む中庭、堅固な壁式構造には、先代が住環境へ注いだ熱意がうかがえる。
さらに約50年。住宅供給が充足し、駅から離れたこの第一種低層住居専用地域では、街の単一用途化が進んでいた。計画前、設計者が空室を借りて一夜を過ごすと、朝7〜9時にはバス停に出勤者が列をなし、昼には人の気配が消えた。
次の50年、街の魅力を問い続けるため、街や社会の変化に応答できる多様な接点が必要だと考えた。自然を感じながら過ごし、交流が生まれる場を目指して「ハイツ自然園」と名を改め、自然園の歴史をゆるやかに引き継いだ。

